そもそも、この沈船引揚げを調べようと思い立ったのは、小説「ちえもん」を読みながら、重量1000トンを超える船を、中型の和船400石-60トン積1艘と、200石-30トン積1艘、及び40石-60石(6トンー9トン)積の小舟70艘で吊上げることが出来るかと疑問に思ったことが発端である。
つまり 沈没船の重さ1000トン以上 > 吊上げに使う船の浮力合計 60トン+30トン+8トン(平均)x70=650トン
・・・これでは浮き上がらない。
船の周りに木の柱を立て滑車で引揚げたとあり、船の浮力で足りない分を加えるとしても、海底の泥の上に立てた柱で350トン以上の引揚力を支えられるかも疑問であった。
片桐氏の「紅毛沈船引き揚げの技術と心意気」に記載された、絵図を見ながらつらつら考えているうちにふと、重大な点を見落としていることに気づいた。
それは、この沈没船は木造帆船であり、海中に没した部分の木部重量は引揚げの負荷にならないという、きわめて当たり前の事実である。
船は鉄でできているという、現代の常識からの落とし穴だった。
これで一気に、喜右衛門の沈船引揚げの実現可能性が見えてきたので、その詳細を探ることにした。
つまり、
沈没船の水面上の重量+金属部の重量(大砲、金具釘等+積荷の銅) < 吊り船の浮力合計+木柱・滑車による引揚げ力
なら浮き上るというわけである。
そこで、まず沈船となったエライザ・オブ・ニューヨーク号とはどのような諸元の船であったかを調べることにした。
エライザ・オブ・ニューヨーク号を調べるうちに、これはかなりいわくつきの船であることが分かってきた。
まず、オランダ東インド会社の船なのに、何故名前に「・オブ・ニューヨーク」が付くかである。それは、この船は東インド会社にチャーターされた米国船で、船長はアメリカ人のウイリアム・ロバート・スチュアートである。
この沈船引揚げが起きた18世紀末は、イギリスの海上支配の拡大、フランス革命とオランダの一時的な占領などでオランダの国力が衰え、オランダ東インド会社もまさに風前の灯と言える状態にあった。
本国からのオランダ商船派遣はもはや期待できず、やむなく米国船をチャーターして商売の継続を図ったのである。 この船は、日本に近づくまでは米国旗を掲げて航海し、長崎入港前にオランダ国旗に変更して、オランダ船として入港したのである。
実は、この2年前にエライザ号はチャーター船として長崎に来港しており、今回が2回目の渡航であった。
エライザ号の1回目の来航は、アメリカ船籍の船が(チャーターではあったが)初めて日本に来港した記録すべきものであった。また、この時ちょっとした波風がたっている。臨検のため、出島のオランダ商館員とともに、エライザ号に乗り込んだ長崎奉行の役人は、いつものオランダ船と全く違う様子に驚き、「何故、特別に色の黒い船員たちやオランダ語でない外国語を話す士官たちが乗り組」んでいるのか、また「こんなに小型の外国船が当地に送られたのか」と質問し、当時の出島の商館長ヘンメイが回答に苦労をしたようである。
そして、2度目の長崎渡航で出港時に、暴風雨に見舞われ座礁し、浅い入り江内まで曳航されたが、そこで沈船となったわけである。
エライザ号の諸元につき、当時の記録はさまざまに記している。
・報告書「沈船浮方一件」;船長さ二十二間(39.6m)、横(幅)六間(10.8m)、深さ六間(10.8m)、石数約八千石(1200トン)積
・絵図「阿蘭陀沈没船引揚ゲノ図」の図中注記;阿蘭陀船艫(船尾)の高さ 九尋 (13.5m)、沈船の重さ 約7千石見込(1050トン)
・「蛮喜和合楽」;長さ 二十三間(41.4m)、幅六間(10.8m)、高さ六間(10.8m)、量目(重量)250万斤(1500トン)
・「村井鍛煉抄」;船長さ二十一間(37.8m)、横(幅)六間(10.8m)、深さ六間(10.8m)、石数八千ー九千石(1200-1350トン)積
幅六間(10.8m)と高さ六間(10.8m)はいずれも一致しているが、長さは二十一間~二十三間(37.8~41.4m)、積載量は八千~九千石(1200~1350トン)、重量は七千石(1050トン)~250万斤(1500トン)と値がばらついている。
正確な諸元を知ろうと、webで探索し、中野昌彦氏の「日米交流」のサイト(http://www.japanusencounters.net)に、オランダ東インド会社にチャーターされた米国船のリストがあるのを見つけた。
そこには鎖国中に長崎入港のアメリカ傭船 として
1797(寛政9)年:イライザ号( Eliza )(600トン、船長:スチュアート)
1798(寛政10)年:イライザ号(600トン、船長:スチュアート)
と、600トンの船と明記してある。また、同サイトには米国船がオランダ東インド会社にチャーターされた時代背景も記されている。 早速中野氏にコンタクトし出所を教えていただいた。
それは、論文「寛政九年アメリカ傭船イライザ号初度の長崎来航」金井圓著であり、エライザ(イライザ)号がチャーター船となった経緯、傭船契約の内容、長崎入港後の波紋等が書かれており、その傭船契約書の前文に、イライザ・オブ・ニューヨークが600トン積みと記されているとある。
これからすると、エライザ号の積載トン数は600トンで、日本側の記録(1050~1350トン)の約半分である。
また、石橋正明氏のサイト「実録 フェートン号の襲撃」(http://shugeki.phaetonmuseum.com)の、「スチュアートの登場」「スチュアート再び」の項に、エライザ号の船長スチュアートの人物像と彼と出島オランダ商館の関係が詳しく書かれており、実に興味深い記述となっている。この中に、スチュアートにつき論文を書いたグーレイ教授の "A Camel for the Shogun"に、エライザ号がbrig型(2本マスト)の船と記述されているとあり、石橋氏のご厚意により原文を見させていただいた。
グーレイ教授はこの論文で「風雲児」スチュアートの一生を描いている。
この論文中に、エライザ号は初代と2代目があり、初代は米国で建設されたbrig型帆船であるが、アジアへの航海で虫食いにより漏水が激しくこれを手放し、初代の船籍証明を使った2代目のbrigエライザ号が1797年にバタビアに現れたとある。
しかし、この2代目エライザ号はどこで建造された物か論考にはなく、突然のように現れたもので、グーレイ教授は初代と同様2代目をbrig型(2本マスト)としているが、これは日本側の記録3本マストと相違している。
先の金井論文でも「イライザ号自体アメリカから史料が得られず、この船がいつニューヨークを発ち、どのような事情でバタフィアにたどり着いたか皆目判らない」と書かれている。
スチュアートの足取りから見て、当時東インド会社がインドで商船を建造していたことから、インド製の可能性はある。ただ「蛮喜和合楽」にエライザ号の船底は「銅鉄をもって巻き詰め」とあり、銅板が張られていた。この銅板は、船底の船虫食い防止用で、スチュアートは初代エライザ号が船虫食いで悩まされたため、2代目はこれに懲りて銅板張りとしたようだが、船底の銅板貼りは18世紀後半に開発された最新技術である。従い、2代目エライザ号はオランダ又はヨーロッパの他国製とも考えられる。
いずれにせよ、エライザ号は600トン積の帆船で、長さ37.8~41.4m、幅10.8m、深さ10.8m、船尾高さ13.5mという以外は、製造国や細かい諸元は皆目わからない状態である。
しかしこれでは、沈船引揚げの技術検討ができないため、18世紀後半の帆船で似た諸元のものがないか探すこととした。
ヨーロッパの当時の帆船の資料を探すうちに、参考になりそうな資料が見つかった。
それは、スエーデンの帆船設計技師チャップマンにより1768年に出版された「Archtectura Navalis Merchatoria」なる、船体設計論と図面集で、大は1200トンから小は20トンのボートまで60余種類が船体の諸元データとともに描かれている。それらの図面はスエーデンのストックホルム海事博物館のサイトからダウンロードできる。(https://www.sjohistoriska.se/en/collections/ritningar/fredrik-henrik-af-chapman)
この図面集の中から、600トン積で近い諸元の船体のデータを選び、これと「沈没船引揚図」をもとに、引揚げ検討に必要な船体の三次元図を作成した。
そして、エライザ号の諸元を以下のように想定し、検討を進めることにした。
なお、マスト数については、出島商館長のラスの記録にエライザ号遭難時に3本のマストを切り倒したとあり、「沈没船引揚げ図」にも切られたマストが3本描かれていることから、3本とした。
また、エライザ号の初寄港時に、長崎奉行所役人が「何故このような小さな船が?」と質問を発した理由を探ると、1790年以降来港した5隻のオランダ船は、いずれも本国からのもので、1150トン積みの船であり、エライザ号の倍の積載量で、一回り大きい船容であったためであろう。
記録に残っている輸入品の重量も、それまでの560-570トンから、エライザ号の290トンへと半減している。(「日蘭貿易の史的研究」)