寛政十年十月十七日にエライザ号が難破し、十九日に沈船となってから、喜右衛門は長崎奉行所の高札に応じて、十月二十九日と十一月一日に現場に出向き調査をしたうえで、十一月三日に沈船の浮方工夫書を提出した。
その原文は片桐氏の「紅毛沈船引き揚げの技術と心意気」に掲載されており、内容は
・船底の破損個所を板でふさぐ
・酒樽1000挺、吊船400石積1艘、200石積2艘、60石積12艘、40石積12艘、20石積12艘で吊り浮にする
・はね木つるべ40個を船に装着し引揚げる
・エライザ号の帆げた5本、大綱2本、綱20本、小綱50本他を借用し使用
ここで喜右衛門の基本構想は、船底の破損個所をふさぎ、海水をくみ出して沈船の浮力を回復させながら、酒樽や吊船で浮力を加勢し浮き上がらせるというものである。
そして「はね木つるべ」であるが、字句通りでは井戸で用いるカウンターウエイト付の棒のことで、これでは用をなさない。巻き上げるための滑車を指して、「つるべ」と呼んだと考えられる。これにより、海底より浮かせた船を滑車を通して引綱を巻き上げて、浮上った船をさらに引き揚げる計画だったろう。
ただ、本工夫書を見る限りでは、浮樽や吊船の数をそろえてはいるものの、特別な新規性はなく、この時点では喜右衛門には、エライザ号引揚の困難さが認識できていたようには思われない。
奉行所役人「成田繁次日誌」によると、喜右衛門は工夫書提出の前日に、船底へ潜水者を入れて破損状況の調査をしたいと申し入れたが、役人より船尾には多数の樽があり難しいと言われている。
そして、工夫書提出の翌日十一月四日に、喜右衛門達より先行して銅の取上げの作業をしていた潜水者が船内で溺死し、潜水作業は中止となってしまうのである。
この十一月初旬の段階では、喜右衛門はエライザ号引揚には登用されず、長崎の町人4-5名が引揚げを行うことになった。
「十一月二十日より浮船に取り掛かり、数多くの船を集め、はね木を仕掛け、又いろいろ手段を試みたが、大船のことで少しも浮上らず、日数四十日をかけたが成功せず、長崎奉行に断りを入れた。」と当時の記録は伝えている。(阿蘭陀船破損書付)
その後、オランダ側が自ら引揚げるとして乗り出したものの、これもまた失敗に終わり、十二月二十八日に、オランダ人と長崎方が連れ立って喜右衛門に引揚の依頼をしに来るのである。
この2か月の間、喜右衛門はそれぞれの引き揚げ方を観察し、それらの失敗についての情報を集め、新たな引揚げの工夫を練っていたと考えられる。
その失敗の内容を推定してみよう。
通常海底に沈んだ船の浮かせ方の為には、以下の図のように綱を船底の左右に渡し、その先に樽や船を付けて浮力を加えることを考えるであろう。
喜右衛門の当初の工夫書もこの方法を考えていたようである。
長崎奉行所は、沈没当初から多数の浮樽を準備し、十月二十三日以降引揚げを試みている様子が「成田繁次日誌」に記されている。
長崎町人による十一月二十日からの浮方作業も、この船底の綱通しをさまざまな仕方で試したのであろう。
しかし、沈船の船底が深く泥に食い込み潜り込んでおり、その下に綱をくぐらせて渡すことは困難であったと考えられる。
また、オランダ側が行った引揚げの工夫についての記録は残っていないが、おそらく岸から太綱を延ばし、それに滑車を取付けエライザ号船内のキャプスタン(巻上げ胴)で巻き上げて、岸に引寄せようとしたと推測する。
このキャプスタン+滑車の仕組みで、太綱4本を使えばざっと150トンの力で船を引くことができるが、これでも引き揚げられなかったのは、船底と泥間の抵抗力が綱の巻き上げ力を上回わっていたと考えられる。
(泥の抵抗力については、8. エライザ号引揚の負荷と引上げ仕掛能力検討 を参照)
そして、喜右衛門は依頼に応じてエライザ号の引揚に取り掛かるわけであるが、そこで3点の独創的な工夫を用いている。
一つは、「船底の太綱回し」で、船底の海底に接する部分をオランダ人より借りた太綱で締め上げ、これに引揚げ綱を多数結んで引揚げる工夫である。
その工夫は、「阿蘭陀碇綱を以て船底を巻立候図」に詳しく説明されている。
これにより、船底の下を左右に綱を渡すことなく、締め付けた太綱を介して沈船の引き揚げることが可能になる。
この太綱締付作業と、引揚力の詳細検討は、次章 5. 引揚の工夫その1ー太綱回し で行う。
二つ目の工夫は、海底から柱を立て、そこに八重ナンバ(組合せ滑車)を取付け、引揚げ力を得たことである。
喜右衛門は、オランダ人の太綱による引き寄せ失敗から、泥の抵抗が大きな力であることを認識し、単に浮船の浮力のみでは沈船を浮き上がらせることは出来ないことに気付いたに違いない。また、オランダ人が引寄せ作業に用いた組合せ滑車に注目し、それを使えば大きな引揚げ力が得られることを知り、これをオランダ人より借り受け、引揚の仕掛けに組み入れたのであろう。
この引揚げ柱と組合せ滑車が「沈船左右の柱に八重ナンバを仕掛ケ候図」に描かれている。
本図で目を引くのが、「八重ナンバ」である。6輪の巨大な組合せ滑車で、引き綱を全てかければ巻綱力の12倍の引揚力を得ることができる。
この仕掛けの詳細は 6.引揚げの工夫 その2-大柱と八重ナンバ で検討する。
三つ目の工夫は、喜右衛門の廻船「西漁丸」を引揚げの仕掛とすることである。
エライザ号の引揚に60トンの浮力を持つ西漁丸は大きな役割を持つのだが、その西漁丸をどのようにエライザ号に結びつけるかが大きな課題であった。
引揚げの絵図に「沈船の艫に廻船を仕掛候図」と「沈船揚方艫仕掛之図」という2枚の絵図があり、エライザ号の船尾に配置した廻船「西漁丸」による引揚げの仕掛を説明したものである。
まず、「沈船の艫に廻船を仕掛候図」を見てみよう。
西漁丸をエライザ号の船尾に配置し、海底に水中横木を置いて、それを西漁丸から滑車で結んだ大山形を起立させることで、エライザ号の船尾を引揚げると説明されている。
もう一つは「沈船揚方艫仕掛之図」である。
本図には、西漁丸・大柱・網船からの引揚綱の接続方法が10項目にわたって事細かに列記されている。
この詳細は 7.引揚げの工夫 その3-西漁丸による引揚げの仕掛 で検討する。
これらの工夫をまとめて引揚作業の全体図を表したのが、「阿蘭陀沈船浮方惣仕掛ケ之図」である。
エライザ号の左舷全長にわたり、網船が23艘並んで配置され、両舷で46艘となる。各々の船尾には引揚げ用の滑車が取り付けられている。また、網船は船尾を 筏の上に乗せており、図中には「この筏は網船の船尾が沈まぬよう浮力を与える」との注記がある。
大柱と八重ナンバはエライザ号の中央より船尾にかけて配置されており、大柱は左舷で11本、八重ナンバは10組で、両舷で各22本、20組となっている。
八重ナンバの巻上綱は、網船の船首又は船央に滑車を介して取り付けられている。従い、八重ナンバを経ての引揚力は、八重ナンバと巻上滑車を組み合わせた分小さな力で巻き上げできるよう工夫されている。
エライザ号の甲板から網船の上から船首前方まで高さ18mの山形が組まれており、そこから網船の船首部(水押)を縄でつなぎ、引揚力による網船の船首の浮上りを抑えると説明されている。
また、エライザ号船尾には西漁丸が船尾どうしを向き合う形で配置され、西漁丸の船尾から引揚用の綱が降ろされている。そして西漁丸の上にも大山形が組まれている。
本図を基に、3次元図を作成したのものを下図に示す。
ここで西漁丸は400石積の廻船として、明治時代に逓信省管船局がまとめた「大和形船製造寸法書」を基に、また網船は「漁船の総合的研究」(田辺悟) 等を参考に、それぞれ3次元図を作成し配置した。
この総仕掛により、エライザ号が引揚げられたのであるが、次章よりその定量的な検討に入って行きたい。