これまで説明したエライザ号引揚プロジェクトの推移を、ステップを追って説明していこう。
ステップ1 エライザ号引揚げ準備 一月十七日~二十八日
喜右衛門の報告書「沈船浮方一件」には、日付を追って作業内容が記録されている。
・一月十七日~二十日 太綱回し、水面での太綱巻付けから船底への押下げ、締め付けに4日を要している。
・他の作業内容は記されていないが、以下を実施しているはずである。
・八重ナンバ取付け用の大柱の地上組立
・大柱を立てるための俵に土入れ、運搬と海底への敷設
・大柱の海上運搬、柱建て
・船尾引揚げ用の十文字木・横木の設置
・網船52艘をエライザ号周囲に配置
・西漁丸をエライザ号船尾に配置
・山形・大山形組立
・八重ナンバ、網船、西漁丸への引揚綱・滑車接続
こうして引揚準備が完了した状態を下図に示す。
ステップ2 0.9m(3尺)引揚げ 一月二十九日
八重ナンバ18組と網船44艘により、エライザ号が0.9m(3尺)引揚げられた状態が下図である。船尾は海底から完全には揚っていないが、船底が海底泥から離れたことで200トンにも及ぶ泥の粘性抵抗は解消され、大きな山場を越えたことになる。
この日喜右衛門は、長崎奉行所より浮き始め祝として酒肴を受取っている。
この段階では、まだ十文字木・横木をエライザ号の船尾の下に入れることはできない。
ステップ3 船尾を揚げ、十文字木・横木をエライザ号の船尾に挿入 二月一日・二日
エライザ号の船尾をさらに揚げ、船底と海底間に隙間をあけて、十文字木・横木を船底下に挿入する。
これにより、西漁丸と八重ナンバ2組及び網船8艘が引揚げに加わることとなる。
出島館長ラスの日記には、二月一日・二日の間、喜右衛門は昼夜、彼の船(西漁丸)を沈船に縛る作業に多忙とある。
ステップ4 エライザ号を2.7m(9尺)まで引揚げ 二月三日
西漁丸、八重ナンバ20組、網船52艘の全ての仕掛を用いて、エライザ号を27m(9尺)まで引揚げた。ここから、エライザ号を浜に向かって引寄せる準備に取り掛かる。
ステップ5 エライザ号を引き寄せる 二月三日
いよいよ、引揚げ作業の最大の見せ場、網船に帆を張り、エライザ号を浜に向かって引寄せる場面である。
エライザ号の乗組員、出島のオランダ商館員、長崎奉行所の諸役人、長崎の町人など多くの人々が見守る中、さっそうと帆をあげエライザ号を引き寄せる姿に、皆が喝采を挙げたに違いない。
とりわけオランダ人(アメリカ人もであろう)は、天災による事故とあきらめていたところを、引揚の成功を見て歓呼し、大声で歌いながら手を舞い足を踏んで踊ったという。(蛮喜和合楽)
翌日には、オランダ商館より祝として酒肴を受取っている。
「阿蘭陀沈没船引揚ゲノ図」はここで終わっており、その後の作業についての当時の記録は「長崎蘭船挽揚図解」で、浜に引揚げられ修理中のエライザ号が描かれているのみである。
しかし、報告書「沈船浮方一件」にはこれ以降、二月四日と五日でさらに3m(10尺)引き揚げ、これで8分通り引揚げが成ったことでオランダ人が二月六日から十二日まで作業を行ったこと、また再度の引揚げ要請を受け二月十三日から十九日までかけてエライザ号を4.5m(15尺)引き上げ、干潟に据えて船底まで作業可能な状態にしたことが記されている。
この間の仕掛と作業の詳細は記されていないが、以下にこの後の作業ステップを推定してみよう。
ステップ6 水深6mの海底に木の丸太を敷き、エライザ号を置く 二月三日
ステップ4の2.7m揚りの図で見ると、船底は7.5m深さの海底から2m上にあり、エライザ号を浜に引寄せても水深5.5mより浅い場所に近づくことはできないことが分かる。
一方、さらにエライザ号を引揚げると水面上の船の重量が増え、引揚げ能力の検討の表にあるように、+3mを加えた計5.7mの引揚げの場合600トンを超える負荷となり、西漁丸と網船52艘では吊上げることはできず、さらに網船の数を増やす必要がある。
オランダ商館長ラスの日記には「さらに小舟を沈船に結びつけるよう要請した」と記されている。
報告書「沈船浮方一件」では、75艘の船を使用したと記されているが、エライザ号の両舷に網船を隙間なく並べても52艘が最大数である。(「阿蘭陀沈没船引揚ゲノ図」の引寄せ図でも、片舷に26艘、両舷計52艘となっている)
これ以上の網船をエライザ号に取付けるには、さらなる工夫が必要となる。
このために取った手段は、引揚げ目標の浜近くの水深6mの場所の海底に木の丸太を敷き、エライザ号をいったんその上に置いて、追加の22艘を丸太に結び浮方に参加させたと考えられる。
ステップ7 網船22艘を追加し+3m(10尺)引揚げ 二月四日~五日
海底に敷詰めた丸太を、追加の22艘の網船に結び吊上げることで、網船合計74艘+西漁丸の浮力を得ることができ、エライザ号をさらに3m(10尺)吊揚げ、合計5.7mまで引揚げた状態を示す。これによりエライザ号はほぼ喫水線まで浮上したことになる。
(「沈船浮方一件」ではこれで8分方引揚げたと記している)
そして、この後エライザ号をオランダ人が作業を行う水深3mの場所まで引寄せたのであろう。
ステップ8 水深3mの海底に受け座を設け、エライザ号を据える 二月五日
このとき、あらかじめ水深3mの場所の海底に受け座を設置し、その上にエライザ号を据えた後、オランダ人が作業を行う段取りとしたであろう。
ステップ9 オランダ人が作業を行う。 二月六日~十二日
オランダ人の作業内容を以下に推測した。
・エライザ号修理のため、浜まで引き上げる準備作業。
西漁丸・網船・柱・太綱などの仕掛をはずした後、船体の支持支柱を設置し、海底の受け座を浜まで延ばして、太綱と船上の巻き上げ機(キャプスタン)、滑車を用いて引上げる準備を行った。
・船底破損個所の応急処置、水止め。
エライザ号をこれ以上引上げるためには、船中の海水をくみ出し、積荷を取出す必要がある。船底は受け座上にあり、かつ水深は3m程度で、作業員が潜って外部から破損穴をふさぐことはできたと考える。
・船中の海水くみ出し。
エライザ号の上甲板までは水抜き穴から排水できるが、それより下部の海水はポンプでくみ出さなけばならない。当時の帆船はチェイン式のポンプを備えており、その能力は1分間に1m3 の排出量である。
エライザ号の喫水線より下部の船内容積は1200m3 であり、これをポンプでくみ出すためには約20時間を要したはずである。
・積荷の取出し。
船倉には積荷の銅・樟脳のほかに航海に必要な食糧・飲料などが置かれており、船内の水抜きと並行して、取り出されたであろう。
ステップ10 エライザ号を浜まで引き上げる 二月十三日~十九日
オランダ人の作業で、積荷は相当量積み出すことができたのだが、商館長のラスは喜右衛門にさらにエライザ号を引揚げる要請をし、喜右衛門は再度引揚に取り掛かっている。
ここから先は下図のように引綱で船を浜まで引き上げる作業となり、船員が船内の巻上機(キャプスタン)を巻きあげ、喜右衛門達は船底に並べた丸太を用いて、コロ引きするための作業を行ったのであろう。
喜右衛門は報告書「沈船浮方一件」で次のように述べている。
・十三日~十五日で1.5m(6尺)揚り
・十六日 1.2m(4尺)揚り、銅箱340個、樟脳、焼物、米籾、古板取上げ
・十七日 銅箱420個、古板取上げ
・十八日 1.5m(5尺)揚り
・十九日 阿蘭陀船は干潟まで揚り、船底まで自由に作業可能となる。諸道具を片付け。
この間取上げた銅は760箱で、全体が3000箱であるから25%程である。二月六日~十二日の作業で75%は取出されていたことになるが、船倉の最下部や奥まった場所の積荷の取上げにはさらなる引き揚げが必要としたようである。
この時の引上げ負荷を算定すると、エライザ号の船体重量は620トンで、船内に残った銅の重量45トンを加えた665トンをコロ引きすることになる。
斜度4度の浜を引上げるとし、コロの転がり抵抗を0.1とすると
引上げ負荷=665xsin4°+0.1x665xcos4°=66トン
キャプスタンと滑車を組み合わせた引上げ能力は150トンで、十分引上げ可能となる。
こうして、32日間をかけ、のべ8000人と1600艘の船を動員し、700トンの物量を投入して行われた、エライザ号の引揚げプロジェクトは成功裡に完了した。
この後、エライザ号は船底破損部の修理をし、佐賀藩から供与された材木を用いて帆柱を立て直して、4か月後の六月に再出航する。
この後も、エライザ号と船長スチュアートには、様々な事件が起きるのであるが、それについては、2章で紹介した以下のサイトを参照されたい。
中野昌彦氏「日米交流」(http://www.japanusencounters.net)
石橋正明氏「実録 フェートン号の襲撃」(http://shugeki.phaetonmuseum.com)