エライザ号は寛政十年十月十七日(1798.10.24)夜半に出航待ちをしていたところ、突然の暴風に襲われ長崎港出口の高鉾島付近の岩礁で座礁し、船底を破損して浸水し始めた。出島商館長ラスの要請で、長崎奉行所は直近の入江に引入れるべく廻船・網船を動員してエライザ号を綱で曳航し、翌十八日には木鉢浦に引入れることが出来た。上部積載の貨物は回収したものの、浸水が継続し、下部船倉の荷物、最下部の銅は引き揚げられないまま、十九日には船体の殆どが海中に没してしまった。
先に紹介した「阿蘭陀船於唐人瀬沈船 防州喜右衛門挽揚絵図」と、幕末(1861年)に英国海軍が作成した海図をもとに、エライザ号座礁場所、沈没場所、引揚引寄せ場所を推定したものが下図である。エライザ号は高鉾島周囲の岩礁で座礁し、曳舟されて木鉢浦右岸の水深が浅い場所に引入れられ、そこで沈没したと考えられる。
その後、喜右衛門に引揚げられ、蘭人仮建屋があった左岸の浜に引寄せられた。
ちなみに、この英国海図が発行された1861年は、1858年の日米修好通商条約締結に続き同年英国との通商条約が結ばれてから、わずか3年後である。
長崎湾周辺が細部に至るまで測量され、海図としてまとめられているのには驚く。この時代の覇者イギリスの力を目の当たりにする思いがする。
次に、沈没の 状況を確認してみよう。
「阿蘭陀沈没船引揚ゲノ図」(長崎歴史博物館蔵)の「阿蘭陀碇綱を以て船底を巻立候図」には、船首と船尾を海面上に出し半沈没状態となったエライザ号が描かれている。船底の最下部は海底の泥に埋まっている。
図中に注記文が記されておりその内容は
・エライザ号船尾の高さ 約9尋(13.5m) (※1尋=1.5mとした)
・船尾が泥中に埋まった寸法 約2尋(3m)
・汐たたい深さ(=水深) 約7尋(10.5m)
とある。「汐たたい」の意味は、片桐氏の「紅毛沈船引き揚げの技術と心意気」で、船中に海水を湛えている深さとしており、エライザ号沈没場所の水深と考えられる。
船尾の高さ13.5mから泥に埋まった寸法3mを引くと10.5mとなり、水深10.5mでは船尾が総て海面下になければならない。ところが、絵では船尾が海面上に1-2mほど出ており、記述と合わない。
何故かを考えるうちに、潮汐による潮位の変動に思い当たり、長崎港の潮位変化を調べてみると、最大3mの干満差があることが分かった。海上保安庁の「海の情報」サイトに、日本各地の潮汐を西暦元年以降の年月日を指定して求められる「潮汐推算」コーナーがあり、これによりその日の潮位の時間変化のグラフを得ることができる。
長崎奉行所役人の「成田繁次日誌」には、喜右衛門が初めて現地を訪れ、役人に引揚の検討をしたいと申し出て調査を行ったのは、寛政十年十月二十九日の巳中刻(西暦1798年12月5日AM10時頃)との記録があり、この時の潮位を「潮汐曲線」で見ると+1.5mである。(下図)
つまり、絵図が喜右衛門が初めて沈船の調査を行った時の基準水位+1.5m(水深9m)で見た沈船の印象をもとに描かれたとすれば、船尾が1.5m海面上に出ており、つじつまが合う。
これから逆に、エライザ号が沈没した場所の基準水位からの水深は7.5mであり、潮汐により水深は7.5~10.5mの範囲で変化することが分かる。
さらに、喜右衛門は翌日深夜(AM0-2時頃)に干潮時の調査を申入れ実施している。干潮では潮位は基準水位(+0m)まで下がり、船首甲板、船尾甲板は海面より上に出て、主甲板も50cm程度の水かさとなり人が歩くことが可能となる。このとき喜右衛門はエライザ号に乗り込み子細に船の構造を調べたであろう。
また、「阿蘭陀沈没船引揚ゲノ図」に描かれているエライザ号の2枚の絵を比較すると、「阿蘭陀船碇綱を以て船底を巻立候図」はわずかに船首が上がっているのに対し、「阿蘭陀沈船浮方惣仕掛ケ之図」は船首が大きく傾斜し上がっている。
注目すべきは、両図とも船尾甲板はほぼ海面に平行になっていることである。
当時の帆船の船尾甲板の傾斜角度は時代とともに変化しているが、17世紀後半の船型図ではほぼ3°から4°の傾斜で、3次元図を起こした船の傾斜は3.5°となっている。
この船尾甲板が水面と平行ということは、船全体は約3°傾いた状態で沈んでいることになる。これは、おそらく船尾より浸水が始まり、傾いて沈下し、海底の泥中に船尾より埋まっていき、船尾が泥に3m埋まった位置で、傾いた状態のまま安定したと考えられる。
以上より、エライザ号の沈没の状態を推定すると、次の図のようになる。
また、絵図と同様の、水深9m(基準水位+1.5m)における、エライザ号の沈没状態の俯瞰図を下図に示す。